転んだ時こそありがとうを探す理由

転んだ時こそありがとうを探す理由

私は、YouTubeに頂くコメントにはほぼすべて返信をしていて、

コメントを下さる方は覚えています。


昨日リリースしたヒーリング、

「恩寵が降り注ぐ」内で、

自分の誕生日であることを書いたら、


これまで見たことのない名前の方々が

YouTubeやLINEでお祝いメッセージをくださいました。



初めて見るお名前を眺めていると、

いろんな方がちゃんと見て下さっているんだなぁと、

嬉しさがしみじみとこみ上げてきました。




「楽しい時は癒され、苦しい時は支えにしています。」

というコメントを見た時は、


「・・私の方が、

視聴者さんに支えられているのに。」と


改めて気付き、じんわりしました。




メッセージやコメント、アイコンという、

人間の存在を表すものを見たことで、

感謝が一気に意識に上がったのだと思います。



LINE登録者さん、チャンネル登録者さん、

を「ひとりひとり」で感じているつもりでしたが、


背後の「人の姿」が隠れがちになりますね。




こんな感じで、

ふだん感謝を忘れず過ごしているつもりでも、

改めて気付いて感嘆することって、ありませんか。




転んでもありがとうを探すのよ



「転んでもまずありがとうを探すのよ。」

と初めて教わったとき・・



「ケガをしなかったこと」

「人を巻き込まなかったこと」

「慌ただしい生活をしていたことに気付けたこと」



など、ありがとうを探してノートに書くようになりました。


最初はなかなか、続きませんでした。



その先にたくさんのご縁を想像する





例えば今私はコーヒーを飲みながら書いていますが、


コーヒー豆が私の手元にやってくるまでに


お店があり、

お店で働く人がいて、

お店にコーヒー豆を運ぶ人がいて。


その前は、

工場でパッキングして商品化されますね。


工場にも多くの役割分担があり

多くの人が関わっていることは明白。



豆はマンデリン。

インドネシア(スマトラ島のマンデリン族が名前の由来らしい)

が産地でした。


インドネシアはバリ島しか行ったことがありませんが、暑い国だったな・・

風や空を思い出します。



そこで栽培している人、

その家族、

輸送に携わる人や輸送の燃料、

船やトラックの部品、道具、

技術の伝授。



手にしているマグカップも同じで、

どれひとつ欠けても私の口にコーヒーは入ってきません。




食卓縁起



手元に食べ物がたどり着くまでに、

どれだけの人が関わってくれているか。


これを食卓縁起と呼んだりしますが、


食べ物、食卓に限らず、


私たちの何気ないワンシーン、全て、


宇宙、天地、自然(何と呼んでもいいのですが)、


そういったものの恵み


人々の無数の縁起(ネットワーク)で、


成り立っていることに、改めて驚きます。




当たり前のようにあるそのものの、

その背景、縁起、ストーリー。


その手触りを感じれば感じるほど、、


人生に、日々の暮らしに、

あたりまえのことは何一つ、

ないと思い知り、



ありがとう、感謝しかありません。




やっぱり、転んでもありがとう、なんですね。



*よかったら目の前の何かで、

ありがとうを繋げてみてください。
食べ物はやりやすいです!
 




ネットワークの中の1点



出来ればその感謝の想いは、表現したいですね。



(コーヒー豆を育ててくれた人に直接、

ありがとうと言うのもアリですし、

今はそういうシステムがあったりしますが。


中間点にたくさんの縁起がありますよね。)



例えば私が買ったお店でありがとうと伝え、

そこから


ありがとうが、逆ルートで広がったり、

関係する人をうるおしたり・・


そんな想像をするのもいいですね。




「伝われ」ではなく「伝える」





私たち一人一人の存在が成り立っているのは、


この縁起のネットワークがあるからこそ。


この無数のネットワークの中の1点が、自分です。




だからオンリーワン、他に同じ人はどこにもいなくて。

誰もが貴重な存在なんですね。



自分の代わりはいません。



そんなオンリーワンな自分を心から大切に


愛していきたいですね。


その先は多くの人へと、繋がっていますから。



本日も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。


心からの愛と感謝を込めて、
Kayo



YouTubeリンク、張っておきます^^